千曲万来余話その389「フリッチャイ物語、ベルリン・フィルとのラスト録音」
フェレンツ・フリッチャイ1914.8/9~1963.2/20バーゼル 父リヒャルト・フリッチャイ、母ベルタ・レンジェル、ローマ・カトリックの家庭でブダペストに生まれる。
1920年リスト音楽院にてピアノを習得し、父からヴァイオリンの手ほどきを受けて、クラリネット、バルブ式トロンボーン、打楽器なども学ぶ。1928年、音楽院にて作曲の講義を受けるなど経験を積み、1933年修了試験、同年セゲードの軍楽隊長に就任し34年には結婚し三人の子供に恵まれている。
1946年にはウィーンから招待があり、12/9、フォルクスオーパーにおいて歌劇カルメンの新演出を指揮している。1947年ザルツブルグにて、オットー・クレンペラーの代役としてアイネム作曲歌劇ダントンの死、初演指揮を果たしている。
1948年にはベルリンにて、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウをロドリーゴ役に迎えて、ヴェルディの歌劇ドン・カルロ新演出を指揮している。同年RIAS交響楽団、12/15、オイゲン・ヨッフムの代役として、ベルリン・フィルの指揮デビュー、ドイツ・グラモフォンとの専属契約が成立している。1949.12/31、RIAS交響楽団とベートーヴェンの第九交響曲を上演、1950年には、シルヴィアと二度目の結婚、63年まで終生の伴侶となる。52年には、ボーデン湖畔エルマティンゲンに居を構える。イタリア、イギリス、ドイツ、フランス、スイスと目まぐるしく演奏旅行、53年には、アメリカのボストン、ヒューストン、サンフランシスコにおける演奏会、54年10/24には、ヒューストンにて22週を超える契約を結んでいるがあまりにも多忙で55.1/19契約解除となる。
56年には、ミュンヘンにて、音楽総監督に就任しているが、57年、重篤な状態に陥る。ヒンデミット作曲、交響曲世界の調和の初演を作曲者に返上。58年11月20日、最初の胃腸手術をチューリヒにて受ける。59年9月まで静養。その後、同年バルトーク・ベラ作曲管弦楽のための協奏曲録音で、ディスク大賞を受賞。1961/62年、ベルリン・ドイツ・オペラ音楽総監督就任要請にも、健康上の理由により辞退。60年、モーツァルト歌劇ドン・ジョヴァンニ全曲録音に対してディスク大賞受賞、 61年11月16日、ベルリン放送交響楽団と最後の演奏会となる。12月に以後の活動を新たな病気の療養専念となる。1963年1月20日、モーツァルト・メダル授与を知らされる。2月20日バーゼルにて逝去、3月24日、ベルリン放送交響楽団、ラファエル・クーベリク指揮により追悼演奏会。
1961年9月25.26日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と最後のセッション録音となるベートーヴェン、交響曲第五番ハ短調作品67、秀抜なLPレコーディングで再生してその生命力横溢した演奏に驚かされる。第一楽章と第二楽章のアレグロ・コン・ブリオと、アンダンテ・コン・モートに統一的なテンポが感じられる。すなわち、第三から終楽章にかけても同様で、堂々とした揺るぎない安定したもので、これは、クレンペラーやフルトヴェングラー指揮などの音楽を受け継いだものになっていて、それはB氏に対する音楽観が、古典派からロマン派への基礎的な解釈として考えられる。そのチェロやコントラバスの重厚な演奏を再生して初めて受ける感覚であって、録音技術が獲得した最高レヴェルを記録している。
こういうテンポの音楽によると、あの運命第一楽章で389小節目の全休止一小節分は不自然と知らされる感じがするも、フリッチャイ記録芸術は不滅である!