千曲万来余話その383「色とりどり紅葉の盛りに聴くM氏の一枚、オーディオ論その四」
人には、受ける第一印象というものがある。会ったとたんにその人となりが伝わり、どことなく馬が合う合わないという直感が働く。ところが、付き合ってみてこんな人だったのか、と思うこともしばしばある。意外にも、こんな良い人だったのかといって、第一印象とは受ける感じの違う人もいる。盤友人は大の悪筆、子供じみた文字を書くので、ひどく莫迦にされる経験を多く持つけれど或るとき、あなたは嘘をつけない人の字だねえ~としみじみ言われた経験があって、それを唯一、心の支えにしている。ものは言い様で、印象の受け取り方も様々なのであるが、オーディオにもそれに近いことが言える。すなわち、第一印象で全てわからないということである。
札幌音蔵社長KT氏は、或る時、オーディオって何か分かる?と言って付け加えたそのひと言、耳を鍛えなさい!ということさ・・・。落語家の師匠、芸に肥やしは必要、といって平然であり、それに近いものがある。人情噺するのに、しゃべくりが、市井の人並みと一緒では、なんにも違いは出ないところと共通するだろう。スピーカーひとつとっても、取り換え引き換え経験しないところに耳は鍛えられないというもの、失敗は成功の母、成功しか経験が無い人に、その悔しさの違いは理解できないように、失敗して初めて喜びは分かるというものである。健康なだけの人より、病気を経験して初めてそのありがたみは分かるのであって、スピーカーも、日本製、米国製、英国製、ドイツ製を経験して、どれが、自分と相性が合うのか?しっくりくるといえる。
そんなこと、経験できるわけがない、とこう考えるのは自然、さにあらず、努力をするところに、オーディオの醍醐味はあるのであって、意外にも、オーディオショップに足を運ぶことで、経験は可能であろう。できるかできないかではなくて、するかしないか?にある。働けど働けど我が暮らし楽にならざりきぢっと手を見る、と詠んだのは石川啄木、彼は、手の甲を見たのではなく、多分、手のひらを見たのであろうということ、このことに気が付くか、気が付かないかで、人生の深みは截然と異なる。
モーツァルト、室内楽の名曲クラリネット五重奏曲イ長調K581は1789年九月33歳のときに作曲していて、M氏亡くなる二年前のもの、晩年の傑作である。クラリネット、弦楽四重奏という黄金の組み合わせ、この一曲に名演奏は星の数ほどあろうけれど、盤友人の愛する一枚は、レオポルド・ウラッハ、ウィーンコンツェルトハウス四重奏団である。1951年録音、ウラッハ1902.9/9~1956.5/7、ウィーンに生まれ、ウィーンで一生を終えた楽人、ウィーン・フィル、モノーラル時代録音のクラリネット演奏は彼のものが多数であり、その音色は巨匠たちが愛したものであった。ウィーンコンツェルトハウスカルテットのメンバーは、創立当時からフィルハーモニカーの人たちであって、その演奏スタイルは、ウィーン楽派といわれる純正、歴史的に見ても作曲家生前からの演奏法を受け継いでいるところに、特色はある。第二楽章ラルゲット、ややゆったりと幅広く歌うように、という音楽、耳を澄まして聴き入ると、ヴィヴラートの無い管楽器に、合わせるかのように弦楽器の奏法も、抑制されたヴィヴラート、ゆらぎをもたせた歌い方である。
黄金色の銀杏並木に、真っ赤なナナカマド、色鮮やかな装いの中に、時はうつろいゆく、しみじみと人生の秋を思わせる季節、そこはかとない憂いの有る季節にオーディオは応えてくれる。万歳!