千曲万来余話その379「フルトヴェングラーをウッドホーンで聴く、B氏7番1943年録音」
ディスクを選択するところから、オーディオは始まりLPレコード、モノーラル録音はモノーラルカートリッジを使用して、十全な記録再生を体験することが出来る。その上で、スピーカーにウエスタン・ウッドホーン224を鳴らし、時間は、1943年、10月31日11月1、2、3日のベルリン・フィルハーモニーホール、45年1月に連合国側により空爆される一年余り以前の記録、その黄金ホールに繰り広げられたフルトヴェングラー芸術の偉大なレコード再生に至る。
10/09月曜えぽあホール、デイヴィッド・ラッセル、ギターリサイタルに足を運んだ。
小さな音量、その上でよく響くかそけき音色、華やかな名技性、彼が楽器をチューニングする時から、客席に座る盤友人の耳を捉えて離さない。スコットランド出身で、スペインに育ち、アメリカでも活躍した国際性豊かなキャリアを物語り、スペイン音楽の神髄やスカルラッティ等クラシック音楽の演奏で、一瞬キタラをかきならすギリシャ人を思わせられた錯覚に陥ったりしたものである。
グラナドスなどアンコール二曲披露して、小ホール一杯の聴衆と一体になり、濃密な秋の夜のひと時を過ごすことが出来た。咳しわぶき一つない、静寂の中でギター音楽は、充実する。えべつ楽友協会の主催で、開館二十周年の新たな一ページ、感謝する一念を胸に、ホールを後にした
音楽は、大小さまざまな音量で聴かされるのだけれど、大音量が記憶に残るとは限らない。小音量であっても、深く心に刻まれる音楽もあるのであり、それをその日に経験できたことは、貴重であった。
ウッドホーンの実力は中音域の微妙なニュアンスの力強い表現にある。1943年の録音であっても、その記録に弦楽器、管楽器の合奏アンサンブルの妙技性、はたまた、ティンパニー音楽開始の一打に、ホールの空間が実感させられて、素晴らしい事、この上ない。
なにより、オーケストラ演奏の緊張感が伝えられるとき、ベートーヴェン交響曲第七番イ長調作品92という音楽を鑑賞するベルリン市民聴衆の姿が、浮かび上がる。これはもう、オーディオの醍醐味、そのものであろう。きっちり、リズムを刻まれて、ダンスのリズムの上に交響曲第一楽章は繰り広げられる。低音域、チェロやコントラバスがスウイングするそのリズムは、魂を揺さぶられる事、この上ない。オーディオという単語一つでもって、括られることは、記録の再生ということなのであろう。そこに、ウッドホーンで再生体験をするとき、何にも代えられない、フルトヴェングラー、必死の指揮姿を思い浮かべられるのは、正にこのひと時以外に、なかなか経験できる世界ではありえない。F氏が指揮するのは、ヒットラーが政権を維持していた時期であり、明らかに戦況は悪化していく、その只中にある。戦争状況の中で、ベートーヴェンの音楽を求める市民の胸中を想像するに、政治と芸術の狭間の市民生活に心痛める。そこを想像せずに、この記録再生を過ごすことはありえない。特に民主主義は、一人一票の政治体制、人々の死線を左右する政治家は、この事実を、いかに、受け止めるのであろうか?市民の側の立場として、しっかり、体制選択を志向する責任こそ求められるのではないか。責任の所在は政治家にこそあり、一蓮托生の市民生活に、真に、意義ある芸術体験をウッドホーンは、導いてくれる・・・そこはかとない、ぼんやりとした不安、今、必要とするオーディオとは?