千曲万来余話その376「フルトヴェングラー指揮、古典配置か、現代配置か?」
フルトヴェングラー指揮というモノーラル録音のLPレコードによる放送録音集がキングインターナショナルから、リリースされるのは非常にありがたいことである。さらに、詳しく付け加えると、1947年~1954年までのベルリン・フィルハーモニーとのライヴ放送録音。
つまり、彼が非ナチス化を認定され、指揮活動を再開されてからの記録であるから、その芸術たるや、生きる喜びの記録と言い換えることができるだろう。第二次世界大戦での戦争犯罪から免れた芸術家の一人として、極めて稀有な存在、戦前から戦後へと継続してその指揮活動を認められた人類の至宝的芸術家といえるだろう。もちろん、ヘルベルト・フォン・カラヤン1908~1989もその一人であって、その違いは、モノーラルからステレオ録音両時代の活躍を続けたかどうかの相違にある。つまり、F氏は、モノーラル録音のみの英雄なのである。
舞台芸術における、オーケストラ録音の在り方としてモノーラルか、ステレオかという考え方の違いは、意識されざるテーマとして、きわめて、重要なものである。すなわち、弦楽器配置における古典配置か? 現代配置か? ということである。
今から三十年余り前、アナログからデジタル録音へ録音ソースが展開を見せた時代、盤友人の周りには、デジタルはちっとも音が良くないねとか、フルトヴェングラー指揮のものは大戦前のものと後のもので、四十年代のものは何か違うんだなあと口にするレコード愛好家が居たものである。今振り返ると、それはそれは、貴重な聴き方であったといえるだろう。大量情報伝達媒体は、競ってデジタル録音へと、愛好家の嗜好誘導を図って、ほとんどコンパクトディスクへと転換を進めていた現実があった。そんな大多数の人々は、CDの世界へと移行していったのが現実である。だが、よく考えると、レコードプレーヤーについていうと、捨てた人々と、愛着から保存した人々と二通り居たのが現実であり、最近の情報として、LPレコードリリースというニュースが伝えられる時代と相成った次第である。まさに、フルトヴェングラー指揮が蘇る時代の到来といえるだろう。
舞台をモノーラルの音源と考えたとき、ヴァイオリンは、第一と第二ヴァイオリンが共に束ねられる現代配置が存在するのだが、F氏の四十年代は、ヴァイオリン両翼配置であったというのは、しかと、認識を改めなくてはならない事実である。それは、舞台のステレオ的配置といえるのだ。だから、指揮者左手側には、コントラバスとチェロ、第一ヴァイオリンが配置されるというのが、舞台下手側といえるのである。右手側上手配置として、アルト、第二ヴァイオリンが配置されてステレオ的といえるのだ。すなわち、ステレオ録音初期は、左手側高音、右手側低音という配置が多数派的楽器配置であったのであり、それをさらにさかのぼること、作曲家時代の楽器配置こそ古典配置というヴァイオリン両翼型というものである。ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームスの音楽をモノーラル録音で愉しむことから、古典配置へと遡るのは、ごく自然な成り行きといえるのだ。 ヘルベルト・ブロムシュテットをはじめ、ダニエル・バレンボイムらのベテランから、クリスティアン・ティーレマン、ジョナサーン・ノットらの世代へと指揮者たちが両翼型配置移行している現実と共に、モノーラル録音でのフルトヴェングラー指揮芸術、ありがたいのはレコードといえる。 つくづく、戦争と平和について考えさせられるこの頃なのだ。