千曲万来余話その366「ラモー、M・メイエルが弾くシャルラン録音」
音楽は、もはや不必要な芸術ではないか?というショッキングな評論を手に取ったのは、昭和44年、盤友人が高校生で東京修学旅行の折に御茶ノ水で購入した一冊、芸術現代論、劇作家山崎正和の一文だった。
これは、現代の作品、コンテンポラリー音楽に対する批評であって、何も、音楽に対するのではなく、現代音楽に対する辛辣な一言である。たしかに、近代音楽のシェーンベルグらによる、十二音音楽の展開は、調性の不採用であって、音楽は袋小路に入った印象を否定することはむつかしい。その後に、アメリカでは、ジョン・ケージが現れて、<四分三十三秒>というピアニストが楽器を前にして、何も弾かない<作品>を発表し、盤友人はそれをTV番組、題名のない音楽会で視聴した。司会は、作曲家黛敏郎。作品の趣旨は、ピアニストが楽器を前にした時、聞こえるあらゆるものが音楽である、ということだった。摂氏-273.15度、華氏零度という数値と奇妙にも一致するのだが、さもありなん、これは音楽に対する概念の改革であって、音楽観の再構築と言い換えることが出来るだろう。これを音楽の袋小路ということは、あながち、誤りともいえないであろう。行きつくところまで、到達したといえるであろう。ただし、再生の可能性は折り返しなのだから、無くなったわけではあるまい。だから、音楽はもはや、不必要な芸術ではないかという警句は、必要な評論ともいえる。逆説なのであって、コンテンポラリー同世代音楽作曲家の宿命を言い得て、妙である。奇妙ではないということだ。
フランス・バロック音楽の精華、ラモー作曲の鍵盤楽器作品をマルセル・メイエルの<演奏>で聴くというか、ディスコフィル・フランセDF98-99で再生する。
システムは、アンプが、V69からPX4へ移行し、モノーラルカートリッジをオルトフォンAタイプ針圧8グラムのものにとグレードアップを図った。四月には、スピーカー・オイロダインの調整を済ませていて、劇的なシステム・アップを経験したことになる。その上で、カートリッジの本命ともいえる黒ツノの入手であった。相乗効果は、モノーラルLPレコードの再生で、不足がなくなったことである。スピーカー、オイロダインは2ウエイだから、目の前にドライバーとウーファーの二対が存在しながら、それを意識させない音像の広がり感である。メイエルの弾くスタインウエイを録音技師アンドレ・シャルランは拾い採り。ピックアップ、針を下すと黒ツノは作動して、鮮明かつ圧力感、実態のある演奏が再生される。ラモー1683-1764作曲、鍵盤音楽のための曲集、グランドピアノで弾かれた極上の音楽は、それがオリジナルがクラブサン、チェンバロのためのものであったにせよ、メイエルは、なんの外連味もない演奏で披露する。両面で六十分、たっぷり二枚で、聴いていて時間を忘れるほどの名演奏名録音ディスク。時間の芸術、記録音楽を再生する喜びの有頂天を経験する。
ディスクの価格は、フランス料理フルコースともいえるほどゼロ四個円、その前に数字が来るのだがそれ位の価値はあるというもので、室温29度、湿度48パーセント、満月前夜の晴天、最高のコンディション、今、台風五号は近畿地方を北東に進行していて・・・・・