千曲万来余話その363「アンドレ・レヴィ、チェロ音楽の神髄に迫る」
愛は悲なり、とは大学生の時に出会った言葉で、慈愛、慈悲ともにいつくしむ心というほどの意味。 ガブリエル・フォーレの一音を耳にした時、学生時分の当時にタイムスリップする。これは、正に音楽による洗礼である。
人は、悲しみが多いほど、人には、優しくなれるものだから・・・はやり歌にあるがごとく、エレジー悲歌、哀歌の音楽に出会うのは、悲しみの共有であり、演奏家に対するリスペクト尊敬の念の経験と作曲家に対する共感の念の発露となる。 A・レヴィの音色は、現代の演奏家には失われた世界であり、それは、レコードを再生する喜びにほかならない。それほどまでに、CDではなくLPの世界に遊ぶ価値はあり、と云える。スピーカーの鳴り方が別物なのである。23日にふれあいチャリティーコンサートで、フィンランド民俗楽器カンテレの音色を愉しむ経験を持った。それはそれは、妙なる音色、小さな音量でも、だからこそ人の心に迫る音楽を奏でていた。演奏家あら ひろこ小樽在住のしっかりした音楽に、時のたつのを、心行くまで楽しんだことであった。決して忘れることのできない一時となったのである。楽器の39弦を両手でかき鳴らし、そのカトリック教会礼拝堂に居合わせた人たちは、みな幸福に包まれていた。
レコード音楽再生の喜びは、正に、音楽との出会いであって、単なる情報の所有を超えたところにある。だから、その日のひろこの音楽、レコードによる鑑賞レヴィの音楽、ともに盤友人にとって音楽の経験による美の共有といえる。ゲーテの格言、人生は注意だ、有用なものから真を通して、美へ・・・というものがある。その価値は、知にあらず、情にあると言い換えることが出来るだろう。
文章は千古の事、得失は寸心の知とは、中国先人の詞。
哲学、文学は、知の世界であり、芸術はそれとは異なる、感覚の世界だろう。ということは、時間の過ごし方として、知に遊ぶのも良し、情に遊ぶのはさらに良しというものである。人生は短く、芸術は長し、とは、けだし名言、盤友人は人の世の無常を、つよく感じる。
ブラームスのチェロソナタ第一番は、ロマン派の音楽、ということは、先にベートーヴェンによる五曲のソナタがあって、その後、半世紀ほどして作曲された音楽ともいえるのだが、演奏の録音は,1961年5月、立派なモノーラル録音でチェロの音色を再生して充分に伝わる、滋味あふれる音楽である。彼のバッハ無伴奏チェロ組曲セットLPは、100~200万円の相場で取引されているという。パブロ・カザルスより次の世代で1894~1982年の生涯に、演奏録音は希少である。彼の音色は、多少、音程の不確かなところもあるにはあるけれど、それは、ガット弦だからであって、なんの遜色もない。それより、音楽を共有する聴衆の拍手に、迫真の芸術を記録証明することになっている。一瞬、その場に居合わせたかの錯覚に陥る、というか芸術享受の喜びの時間といえるのではなかろうか?彼の記録は、不滅、希少、滋味という三拍子そろった名盤である。フォーレと、ドビュッスィのソナタなど1958年6月のパリ録音、貴重なクレジット。