千曲万来余話その348「ドビュッスィ、交響的素描三曲、海」
手元に、楽譜を持ち合わせておらず、それが作曲者の許容する解釈に当たるのか?指揮者は第三曲、風と海との対話においてクライマックスにあたる場面、第一ヴァイオリンはAs変イとDes変二の斉奏ユニゾンで22小節間フラジョレットトーン、弦楽器のハーモニックス倍音を聞かせるところがあるが、それをコンサートマスターと隣、第一プルトだけの演奏にしていたのだった。多分、彼の解釈か、芸術的理由からの選択によるものなのか?即断はできないのだけれど、盤友人は、そこのところ、オーケストラがどのように演奏してくれるのか、当夜最大の期待を抱いていた音楽なのであるが、それを彼は二名だけの演奏に変更を加えていたのだった。それは、ショックだった。
さもありなん、彼は、ヴァイオリンの配置が両翼配置ではなく、第一と第二を束ねる現代主 流の選択なのであるが、ドビュッスィの管弦楽法は、たとえば、チェロとアルトの音楽の時、舞台下手側のヴァイオリン群は音を出さないでいる部分などがあるのだが、それは、両翼配置の場合には舞台中央の音楽に当たる。だから、作曲者の前提としては、楽器配置のイメージがあるのであり、それが、コントラバス舞台下手に位置するヴァイオリン両翼配置なのであり、当夜、六人のコントラバス演奏者は普段通り、舞台上手配置をされていたという構図。否定されるべきは、指揮者によるヴァイオリンを束ねる判断そのものなのである。現代、なぜその選択が主流を占めるのかというと、指揮台に立つ指揮者のリスク回避なだけなのである。ヴァイオリンを舞台両袖に開くと、格段に演奏技術の高さ、緊張感が強いられることを予想されるのだが、それでこそ、その緊張感こそ克服すべき音楽なのであろうし、その交響楽団の力量を発揮する選択そのものなのである。あの部分に限らず、音楽の楽しみはいたるところにあったのだ。
音楽の演奏上の透明感は、当夜、一際精彩を放っていたし、なにより、ラトヴィア放送合唱団、各パート六名ずつによる演奏は、女声前列、後列は下手側バス、上手側テノール配置という、四声体にとって理想とする配置をなされていて、10分に及ぶ無伴奏アカペラ演奏での、マーラー交響曲第五番第四楽章アダジェットのクリュタス・ゴットヴァルト編曲版、ヨゼフ・フォン・アイヒェンドルフ詞の夕映えに、素晴らしい理想的な、極上の演奏を披露していた。その前には、オーケストラの演奏があって、アタッカ、続けて演奏されていたのだが、たしかに、オーケストラ弦楽器奏者たちは、音を出さないでいたのだった。それが、布石であったといえば、そうなのだが、あのドビュッスィで、ユニゾンがそのように第一ヴァイオリン奏者達は、待機させられていたというならば、オーケストラ定期会員である盤友人は、ほぞをかむ思いになったのである。なにより、当のメンバーたちもそのように、感じていたと思われるのだ。
海、第二曲波の戯れでの打楽器、トライアングルの演奏一音一音なども、鮮やかで管弦楽法の透明感は極上の演奏が展開されていただけに、あの指揮者の解釈は、納得が行かないものであったといえる。交響楽団定期公演での最高の醍醐味は、演奏者たちの活躍に他ならない。指揮者の解釈、それが世界最高器楽奏者によるものであったとても、残念至極であったという思いをさせられて札幌コンサートホールを後にしたのだった。名曲、名演奏を聴いた後に・・・