千曲万来余話その347「ワーグナー、タンホイザー序曲で聴くクナの至芸」
LPレコードは商品なのか?はたまた芸術情報なのか?物なのか?芸術なのか?いろいろと思いめぐらされるのだが、盤友人がハンス・クナッペルツブッシュ指揮するワーグナー作曲した序曲を再生する時、彼の芸術が伝わってきて、不覚にも落涙を覚える。単なる商品にあらずして、そこに偉大な彼の存在が再生されるのは、宗教的儀式でもありえて、万歳!と叫びたくなる衝動をこらえる努力が必要になるから不思議だ。
一見、ネオナチズムの呼び声かと錯覚するほどなのだが、さにあらず、現代のウスクチ商品氾濫に対する熱烈なアンチテーゼなのであり、過去の偉大なる芸術に対する懐古趣味ならずリスペクトである。それは、たとえば、クナの75歳アニヴァーサリーレコーディングによる、1962年ミュンヘン・フィル録音を再生する喜びにある。タンホイザー序曲では、お仕舞いにある救済の主題がブラス楽器による吹奏と弦楽器の音楽により、号泣をこらえるのに努力が必要となる自分がいる。確かに、レコードで演奏しているのはオーケストラのメンバーだけなのだが、そこで伝わるのは、偉大なるクナに対するリスペクト以外の何物でもない。ここで、言いたいことは懐古趣味ではあらずして現代に対する警鐘である。ヴァイオリン両翼配置を否定した現代多数のオーケストラ音楽、それ自体は、左右の翼を畳んだ堕落であり、アンサンブルのリスクを安易に回避した結果に対する鉄槌である。つまり、左右のスピーカーからヴァイオリンの演奏が再生されるオーケストラ音楽の核心性であって、現代の欺瞞をあばくのが、クナの芸術、そのものである。聴衆は提供される情報を鵜呑みにするだけなのであるが、問題は、ヴァイオリン両翼配置の透明化である。忘れ去られた栄光、熱狂主義再現ではあらずして、リスク回避に陥ることのない真のオーケストラ音楽再生である。
クナの指揮芸術は、まさにオーケストラ全員の音楽の統括であって、彼の存在なしでは、語れない、作曲家、指揮者、演奏者の三位一体であり、それを認め、再生するのがオーディオリスナーの責任である。
くりかえすが、懐古趣味、些末主義、全体主義ではあらず、逆にファナティズムを戒める態度こそ、求められる境地といえるのだ。
おそれるべきは、排外主義だ。ヴァイオリンの第一と第二を束ねるのは、安易なリスク解決法なのであるという認識に気が付くと、現代の優秀な演奏能力を誇る口先だけの事実ではなくて、その証明になるのであろう。たとえは、札幌で唯一の職業オーケストラが、口先だけでその優秀性を唱えるのではなく、定期公演でヴァイオリン両翼配置のもとに、オール・モーツァルトプログラムを実施するだけで良いのだ。両翼配置は、音楽観の発露なのであり、単なるヨーロッパ芸術模倣、音楽を猿真似するのではなく、演奏能力発揮する模索こそ、必要な態度なのである。オーケストラ活動の出発草創期はチェロを舞台の右袖に持ってきているのだが、ワーグナーの音楽は、現在の第二ヴァイオリンと座席を交換するが良い。それでこそ、解決の一段階なのである。第一と第二ヴァイオリンを両翼に開く感覚は、オーケストラが正面に立ち向かうという姿なのであり、現在は、舞台の下手側に向いている状態といえる。コントラバスは、指揮者の左手側に位置して土台となり。第一ヴァイオリン、チェロと一体の音楽を演奏するのが理想である。舞台上手側は、アルト、第二ヴァイオリンが位置していて、その後ろにホルンやトロンボーンという管楽器の演奏がものをいう。日本コロンビアのレコードは今なお貴重なのである。