千曲万来余話その324「バッハ、ロ短調ミサをミュンヒンガー指揮によるステレオで聴く」
管弦楽とコーラスによる音楽をレコードで再生して、コーラスの声部配置に注意されたことは、おありだろうか?いつも聴くときは、ああ混声合唱団がうたっているなという程度の認識であると思われる。だいたいは、女声コーラスが指揮者の左側、右手側に男声がひろがる、そんな配置がイメージされて、そのように聞こえてなんの問題意識もないことだろう。 盤友人は、歌う側から聴く側に推移して、20年くらい経過しているのだが、そこでさしあたって、その声部配置が楽しいのだろうか?という疑問に向き合っている。歌っているときは、ただ歌っているだけで、何も考えることなく指揮者に従ってコーラスに参加していただけである。ベートーヴェンの第九交響曲のステージを30回は経験しているのだが、たいていは女声舞台下手、男声上手配置であったのだが、カール・ミュンヒンガー指揮するバッハ、ロ短調ミサ曲の演奏配置は、女声が前列で、男声は後ろの列というもので向かって右手側がテノール、左手側がベースという配置だ。女声は右手側がアルト、そして左側がソプラノ配置。バッハのポリフォニー多声部音楽では、各パートの出だしが独立しているとき、向かって右手側からテノール、左手側がベースとか右手にアルトそして、指揮者の左側からソプラノが聞こえるなどしたとき、その複雑な掛け合いが、作曲者のイメージによって、作曲されていることが伝わってきて、ヨーロッパ音楽の面白さが、手に取るように認識させられる。ひるがえって、現在、レコードで聴くことのできる合唱の配置はというと、判で押したように、女声ステージ左手側、男声右手側という大多数のソースに、盤友人は懐疑的というわけだ。そのように、配置される指揮者が大多数という中で、現代において、ミュンヒンガーのLPレコードの価値は高い。
少数派だから、価値があるのではなくて、それが聴いて楽しいし、価値があるからであって、多数派か?少数派か?というわけはない。すなわち混声コーラスの理想的な配置は、男声の音響の上に、女声をのせるという工夫、なにも、レディーファーストということで、男声を下げているのではないのだ。音響的必然性を考えたとき、理想的とすべき配置は、左手側が高音域、左手側低音域という固定観念を乗り越えて、その混声ミックストヴォイス、ソプラノの支えとしてベース、アルトの奥にテノールを配置するという和音ハーモニーの外声部と内声部を左右配置の原理とした方が、聴いていて、そして歌う側も楽しいことであろうと考えている。
定位ローカリゼイションの向上を実現して、獲得して初めて到達した境地、共感する人が、一人でも増えてほしいという願いから、サイト発信しているのだが、理解されているであろうかといつも、悩んでいる。ミュンヒンガー指揮のディスクを再生して、スッキリ、悩みの雲も晴れていくのが分かる。なにも強制しているのではなく、そのように音楽を愉しんでくれれば、理解できるであろうと、思っている。
砂金というもの、砂の中に、金の粒は希少であって、だから、価値は高いし、その発見の喜びは、大きい。混声合唱団に関係している人が、このサイトアクセスの方の中にいらっしゃっていたならば是非、声部配置の試みをされること、希望する。いつまでも、同じという保守的な態度は、よくわかる話ではあるのだけれど、手のひらを反すことは、決して無駄な努力ではない、面白い話ではある。