千曲万来余話その321「B氏の交響曲第五番が作品67であることの意味」

だいたい音楽に関する常識が、二つはある。その一つ、作曲家が作曲するとき、小節などを数えるものではない、というもの。その次、音楽において、間が大変、重要であるというものだ。
 この二つとも、誰も否定することは、できない常識であろう。
 これを否定すると、変人扱いされるのが、オチというものである。常識というものは、大体において当てはまるものであっても、全部に当てはめて考えない方が、柔軟な思考というものではあるまいか?場合によっては、当てはまらないこともある!と考えるのが、盤友人の発信である。 なぜなら、ベートーヴェンの交響曲第五番ハ短調作品六十七の第一楽章で、501小節楽譜使用のSPレコード演奏記録を入手している。正確にいうと、復刻レコード、ならびに、コンバクトディスクを、いつも再生できるからである。すなわち、389小節目に、全休止のない音楽を鑑賞している。すなわち、現存する楽譜との不一致で、502小節を、否定する発信をし続けている。アレグロ・コン・ブリオとは、快速に、勇気をもって、という速度指定である。あの389小節目、全休止が有効な演奏速度は、急速なテンホであって、一段、速度を落としたアレグロの場合、あそこで、弦楽器群による間は、間延びしてしまうことになり、だから、それを避けるために、プレスト急速に近い設定がなされるというのが、現代の流行である。逆に言うと、ゆったり演奏するときに、全休止は不必要であるということだ。
 第一楽章で、124と125小節目は2小節全休止であり、盤友人とても否定しないことに注意する必要がある。一小節、一つ振りで音楽は演奏される前提である。その上で、全休止を小節ごとには振らないことも必要である。なぜなら、音を出さないのだから、振ってはならずに、頭の中でカウントするという前提なのである。 だから、間を一概に否定するのではあらず、389小節目の全休止だけを否定する。
 自筆楽譜に休止は書かれているから、というのではなく、426小節目から音楽は流れ出すという指摘は、議論の急所となる。それは、この音楽が提示部124を繰り返して、501小節足すならば、625小節、すなわち、5の4乗という節目が成立するということである。
 読者のみなさん、ニキッシュ、山田耕さく、クレツキ達は、あの全休止がないレコードを残している事実をよく、考えてください。ところが、クレツキ指揮するチェコ・フィルハーモニーの演奏は、全休止があり、諸井三郎氏、昭和26年の解説では501小節でありながら、翌年、全音楽譜社の解説で提示部、展開部、再現部あわせて374とし、終結部128で、合計502小節という、二種類の楽譜の存在を、証明している。ということは、どちらかを選択することが、演奏者達に要請されているのだから、502小節一辺倒の現代の在り方に、異説を発信し続けるのが盤友人なのであるということだ。501小節があっても良いのである。 
テンポ感のアレグロとは、こころよいという解釈も重要、だから、ゆったり感の演奏で間延びしない音楽こそ、要請される。そして、合奏難度ハードルが高いヴァイオリン両翼配置による音楽こそ、理想とするベートーヴェンの音楽、5、6、7という数字並びが、意味を発揮する。(笑)