千曲万来余話その315「モーツァルトの交響曲プラハ、ワルター録音からレヴァインへの経過」
1962年2月17日、ブルーノ・ワルター・シュレジンガー、ビヴァリーヒルズで86歳の人生を終えた彼の指揮芸術は、不滅である。
1876年9月15日、ベルリンで誕生し、1885年9歳のとき、シュテルン音楽院に入学、ピアノと作曲を学んでいる。10歳でピアノリサイタルデビューした。さらに、1889年、13歳でベルリン・フィルハーモニーのコンサートにデビューしている。当時は、指揮者、ハンス・フォン・ビューローが指導者だった。1894年18歳のとき、オペラ指揮者として ケルン市立歌劇場デビューを果たしている。1895年、ハンブルク市立歌劇場合唱指揮者に、翌年、指揮者に昇格している。このとき、グスタフ・マーラーに出会うことになる。オペラ公演のピアニストとして共演し、その才能が評価されて二人は深い親交を交わすことになった。
ブレスラウ、プレスブルク、リガなど市立歌劇場首席指揮者を経験し、1900年、ベルリン宮廷歌劇場、リヒャルト・シュトラウスやカール・ムックのもとで、副指揮者として活躍、1901年から1912年までウィーン宮廷歌劇場、楽長に就任、この十一年間のウィーン時代、マーラーと共に活動、1913年ミュンヘン宮廷歌劇場音楽監督就任、1919年以降ベルリン・フィルハーモニーを定期的に指揮するようになり、 1923年以降、アメリカ各地を客演、1932年には、ニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者に就任する。トスカニーニとそれを分かち合い、不動の地位を確立した。
1940年、アメリカに帰化、 64歳になっての転機、1941年以降、メトロポリタン歌劇場で活躍、ニューヨーク・フィルハーモニックとのコンビ、1949年には、終身音楽監督に推挙される。1957年には、コンサートから離れてスタジオ録音に専念する。1958年1月にはロスアンジェルス・フィルを母体としたオーケストラ、コロンビア交響楽団とのステレオ録音を開始、余生を全うすることになる。
1959年12月には、モーツァルト、交響曲第38番ニ長調K504プラハ1786年12月6日作曲を録音している。プレーヤー達の歌心にあふれていて、最高の演奏ともいわれる。注意深く耳を傾けると、右スピーカーから、ヴィオラ=アルト、チェロ、コントラバスの演奏がきこえる。
大多数のリスナーには、耳慣れているのだが、左スピーカーでは、第一と第二ヴァイオリンが聞こえてくることになる。 1986年12月、ウィーンで録音したジェームズ・レヴァイン指揮、ウィーン・フィルの演奏には、特徴があって、右スピーカーには第二ヴァイオリン、アルトの演奏が展開している。明らかになったのは、モーツァルトの意図であって、左右舞台上での掛け合いが見事に記録されている。このことは、指揮者、演奏者たちの主導でステレオ録音が定着した歴史、もはや、現代では二通りのステレオ録音が楽しめるという次第になった。これは、ワルターの指揮録音を否定することにはならない。それはそれで、楽しめばよいのであって、これからの時代、指揮者たちは、どちらのステレオ録音かを選択が迫られているといえる。すなわち、唯一の選択ではあらず、可能性の追求にこそ、演奏者たちの面白味は、あるのであって、これしかない、というのは、音楽の楽しみ方としては、片手落ちといえるのだろう。
とにもかくにも、レヴァインの録音は、ワルターの膨大な録音に比肩する仕事、新しい時代の開幕とこそ、言えるのである。