千曲万来余話その307「英雄交響曲、ベートーヴェンとブラームスを指揮するトスカニーニ」
1950年代だっただろうか?アメリカの楽壇は、こぞってフルトヴェングラーがアメリカの楽団指揮することを拒否する事態を迎えて、その先頭にトスカニーニがいたという。
その訳として、様々な事情が働いたであろう事を想像するのは容易であるが、盤友人は、当時、フルトヴェングラーは、第一と、第二ヴァイオリンを畳んでいたという事実を指摘しておきたい。トスカニーニは、引退するまで、ヴァイオリン・ダブルウイングを貫き通していたのである。
誤解されている事であるのだが、トスカニーニは独裁者であって、恐怖政治のごとく指揮していたというすり込みである。事実、彼のリハーサルの一端は、怒号と叱責の連続だった。
トスカニーニの1952年ライブレコーディングで、ロンドン公演、ブラームスチィクルスがある。 フィルハーモニアオーケストラ・オブ・ロンドン、ロイヤル・アルバートホール、ライブ公演記録。 この演奏をつぶさに、聴いてみるに、彼の音楽は、快速のテンポでありながら、きわめて、情緒豊かであって、オーケストラの生命体は有機的で、なおかつ、魅力十分、圧倒的なアンサンブルの記録である。ハーモニーの透明感は、抜群、その上、ピッチが完璧で揺らぎが無く、トランペットの吹奏でも、決め打ちアクセントが明快、緊張感は充分である。ティンパニーも堂々たるものである。
ブラームス、第三交響曲へ長調作品90、第一、第二楽章は、快適で、アンダンテ楽章もサクサクと演奏は進む。第三楽章、チェロの斉奏ユニゾンで、歌心は、ピークを迎える。合奏も、オーボエ、シドニー・サトクリフ、フルート、ガレス・モリス、ホルン、デニス・ブレイン、彼らのアンサンブルは息があっているし、ホルン独奏のあの有名なテーマは、独擅場を迎える。 合奏の全てが、揃っているのは、奇跡的であって、恐怖政治の結果では有り得ず、トスカニーニの愛情が、オーケストラを支配した結果であろう。決して、荒々しい演奏ではなく、柔らかな緊張感に溢れた音楽であって、自由に、しかし、楽しくと言う作曲者の意向を汲んだ演奏なのである。
1953年12月録音、NBC交響楽団によるカーネギーホールライブ公演は、冒頭からして、英雄交響曲の開始にふさわしい、冒頭の音楽である。その鍵は、コントラバスの位置に依るように思われる。第一ヴァイオリン、チェロの音響をつつみこむ、コントラバスがスイングしているのである。
1960年代主流を占めた、第一ヴァイオリンとコントラバスが左右に遠く離れた配置とは、音楽が截然と、異なっていて、男性的音楽にしあがっている。ベートーヴェンのメッセイジ、ボナパルトという独裁者名を消した楽譜の音楽となっている。葬送行進曲は、英雄の死、野辺送りの意志表明であり、決して、嘆き悲しんでいる音楽になってはいない。第三楽章は、新しい時代開幕のファンファーレ、これからの世界への船出である。
コントラバスが、舞台左手側、下手配置というのは、作曲者の意志表現には、最適配置であって、舞台右手側、上手配置の二十世紀後半に支配した音楽へのアンチテーゼは2017年にふさわしい音楽演奏スタイルのあるべき姿である。トスカニーニの音楽は、恐怖ではなく、新しい秩序、独立への強固な意志として、再考すべき楽器配置であろう。彼の指揮する緊張感は音響を越えて、その歌心は、不滅の音楽再生の理想的姿なのである。