千曲万来余話その287「ワーグナー、ニーベルングの指輪四部作管弦楽版セル指揮LP」を掲載。
今年も、あと残り六週間となった。11月20日午前10時30分、盤友人は札幌市中央区北三条西三丁目の群衆の中の一人にまぎれて、日本ハムファイターズ優勝パレードに駆けつけてみた。栗山英樹監督を間近に見て、そして、バス上に立っていた背番号11や武田勝投手のユニフォーム姿をデジタルカメラに写して、そのひとときを愉しんだ。彼らは日本一を達成したのである。栗山監督の笑顔に対して群衆の人々もみな、拍手を贈っていた。
はしゃがぬように、時代遅れのそんな一人でいたいはずだったが、このワクワク感もなかなか、経験できない一時で、頭上のヘリコプターの騒音も滅多に体験しないことではあった。北海道の皆さんはTV映像でご覧になられたかもしれないけれど、交差点の人混みにまぎれたのも、また愉しからずやであった。
ワーグナーの楽劇は、四夜にわたり上演されるニーベルンク゜の指輪を一挙に、LPレコードで鑑賞することができる。1970年7月に死去している指揮者ジョージ・セルは、その後半生での25年間、クリーブランド管弦楽団とレコーディング多数残しているその中の一枚、ラインの黄金からワルハラ城への神々の入場、ワルキューレの騎行、魔の炎の音楽、ジークフリトから森のささやき、神々の黄昏からジークフリートの葬送音楽そして情景・・・・、壮麗なバイロイト音楽祭を想起させる音楽。 ワーグナーのファナティス゜ム熱狂主義は、歴史上においてヒットラーとナチズム国家社会主義との関連性から、いまわしい音楽として、敬遠されていた。だがしかし、純粋に管弦楽の音楽として愉しもうとする人びとがいたのも、事実である。冷静に客観的なワグネリアンというのは、ありえない話ではあるけれど、盤友人は、その境地を目指している。セルなど、彼の不滅の指揮芸術はそれ以上の高みに達していたはずであろう。
この季節、美的ファナティス゜ム熱狂主義というと、作家三島由紀夫の一枚看板に確かにあったのだが、最期の連作小説、豊穣の海四部作は、八千枚に及ぶ、彼の渾身の完成した輪廻転生の世界である。昨年、千曲万来余話その175に詳しく述べていたので繰り返すことはしないけれど、作家ミシマは、小説とは何かで、ミナミゾウアザラシのようなものと述べていた。メビウスの輪のように閉じられた世界を描き決死の覚悟で世情争乱事件を体現した一小説家に、盤友人としては、ワーグナー四部作を鎮魂し慰謝する音楽として鑑賞しようと、せめて思うのである。
ジョージ・セルほど、完全にオーケストラを掌握した指揮者は数少ない。彼がヘルベルト!と声をかけると、やあジョージ!と挨拶をかわす、カラヤンなどもその一人である。こんなエピソードが伝わる音楽の世界、管弦楽の醍醐味は、騒音に訣別する極彩色カラフルな音響を体験する極上の贅沢かもしれないが、盤友人としては、人生の糧、音楽の一面としてとらえたい。人混みの中で、心の中は、はしゃがぬように、目立たぬように時代遅れの、そんな男でありたいというフレーズ、あなたと共有できたら・・・・・枯れ葉が舞い散る道路を、足早に次の約束へと歩いていった。