千曲万来余話その276「ふるさと、小景異情その二、室生犀星、作曲磯部 俶への異説私論」を掲載。 by盤友人。
金沢出身明治二十二年生まれの室生犀星、大正二年二十五歳の作で小景異情その二は、ふるさと。
ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの、と格調高く歌い上げられている。 詩は、よしや、うらぶれて異土のかたゐ乞食となるとても、帰るところにあるまじや、と続く。
異土とは、東京のこと。あるまじやとは、ないであろうということ。帰るところとは、金沢。
ひとり都のゆふぐれに、ふるさとおもひ涙ぐむ、東京にいてふるさと金沢思い涙ぐむという。 「そのこころもて、遠きみやこにかえらばや、遠きみやこにかえらばや・・・遠きみやこのことを、詩人萩原朔太郎は、故郷金沢に帰りたいという解釈で彼の思いを捉えた。昭和十七年のことである。小景異情はすべて金沢のことを主題にしていることに注意する。伊藤信吉、吉田精一らは、これを朔太郎の誤解として、東京に帰る直前の作と解説している。遠きみやことは、東京のことであるというわけだ。前提は、制作地が金沢でということ。
遠きみやことは金沢と東京の二説あるわけだが、作曲家磯部 俶は、この詩で男声合唱曲を作曲している。それは、へ長調でふるさとは遠きにありて思うもの、と開始している。よしやうらぶれて、そこのところはへ短調。東京に居るときの感情。ひとり都の夕暮れには、変ニ短調、ふるさと思い涙ぐむというのは、愛憎共存のアンビヴァレンス心情告白である。この後続けて、イ長調で、そのこころもて、遠きみやこにかへらばや、と続ける。さらに終結の10小節そのこころもてというところでは、ヘ長調へと転調する。冒頭と同じ調性である。 ということは、東京にいて遠きみやこ金沢に帰りたい、という帰結になるのではないだろうか?ふるさととは、金沢のことであり、遠きみやこというのも、ふるさとへの思いからである。
詩とは、作者の内面世界の表現であり、白黒つかないグレーゾーンの世界であろう。すなわち、みやことは、東京のことだから東京にかえらばやという解釈は誤りだとは、言い切れないところに、詩の世界は存立する。なぜなら、遠きみやこという言葉は金沢にいた時のものだということの可能性を否定できないからである。ただしそれを作曲者は、曲開始と同じくへ長調に回帰して表現したのだ。それは、だから東京にいて、ふるさとを思うこころだと言えるのではないのだろうか?
当団の指揮者H氏は、解釈には白黒つけない世界でコーラスを味わいたいという立ち位置。練習の途中で、テノールK・K氏の指摘に、ある団員は、都とは東京のことで、だから東京に帰りたいという心情だと発言。その場は、現在、その解釈が優勢というフォローがあり、そのままで収束、盤友人はその時、遠きみやこは東京というのは間違いだとする発言を、飲み込んでいた。あとで、彼K氏には告げていたのだが、練習の途中では、解釈の議論もなじまないだろうと思ったからだ。簡単な話ではないはず。多分、作曲者の転調もそういう心情を受けとめていたのではないだろうか?
詩と音楽の世界、全体を受け入れて、一人ひとりがこころの内に思いを致すところに醍醐味はあるのかもしれない。ただ、詩人萩原朔太郎と盤友人は同じ感性に立って、磯部俶による室生犀星のふるさと金沢への異情として味わうこととする。言い方は、色々あって、そこのところ実にむつかしい・・・・・!