千曲万来余話その273「ピアノ協奏曲第五番皇帝、レヴァイン指揮、ブレンデルのライヴを聴く」を掲載。
アルフレッド・ブレンデルは、打鍵がしっかりしていてたっぷりと楽器を鳴らす演奏に成功している。第一楽章の構成感も確乎としていて、男性的な第一主題、女性的な第二主題の引き分け方も明快で、いかにも経験が豊富、その上新鮮な感覚もよく伝わってきて、あたかも、ベートーヴェンが即興的に目の前で演奏を繰り広げているような感覚におそわれて、実に楽しくなる演奏である。
一方で指揮する、ジェイムズ・レヴァインは間然とするところなくスリリングな管弦楽コントロールが効いている。クラリネット、ファゴット、ホルンなど、独奏で演奏される管楽器の合いの手が名人芸、ヴィルティオージティーが遺憾なく発揮されていて、つい、引き込まれてしまう演奏であるしフレーズの歌謡性が豊かで、聴き応え充分である。いうまでもなく、演奏して音を出しているのは、オーケストラプレーヤーであって、指揮者の音楽は、それを引き出しているにすぎないという神業である。邪魔をしている指揮者の存在は、目障りであり、滑稽ですらある。レヴァインの指揮は、その点で、最高点が与えられてなんの不思議もない。現代、最高クラスの名指揮者である。その彼は、現在、その演奏、ソースを流通させていないのは、いかにも彼らしい。多分、ホールでは熱狂的な支持を得ているのであろうことを、想像する他はない。その情報が得られる日を愉しみにしているとだけ、発信しておこう。
1983年ライヴ録音のシカゴ交響楽団、その演奏には、多数派の演奏とは異なる解釈が記録されている。第二楽章、瞑想的で、深遠な雰囲気を醸しだす音楽の演奏、その中で、第三楽章へ移行するとき、弦楽器の演奏、いつピッチカートに入るか?で違いがある。
多数派の録音では、アルコという弓で弾く演奏を続けていて、小節の頭でピッチカートに入るものである。ここでの演奏は、小節の後ろの方、アウフタクトといって、八分音符にピッチカート演奏させるものである。考えてみると、小節の頭、四分音符で、ピッチカートはふさわしくない。だから、多数派のように演奏せずに、小節のアウフタクトでピッチカートさせるのが、B氏、作曲家の考え方という方が、理に適っているだろう。過去に遡れば、クリフォード・カーゾンの独奏で、ジョージ・セル指揮、ロンドン・フィルハーモニックのレコードもそのように演奏している。
演奏家が目にする楽譜には、つまずき石とも云える落とし穴が待ち受けているのだ。くれぐれも作曲者の世界をイメージして演奏することが理想であろう。楽譜を演奏しただけの音楽は、ただつまらないという、良い証である。