千曲万来余話その235「運命を、その人に聴きたいのだけれど・・・」
先日、運命の話を知人に振り向けたら、それは、ベートーヴェンに話を聞いたら一遍でしょう!という返答だった。
盤友人は、前提の一つとして、楽譜の謎、特に小節数の指摘をすでに済んでいる。 作曲の目的の一つに、500小節完全の音楽を作曲して済ませ、502小節は、一小節の全休止が余分で、作曲者の意図ではないですよ、これは、間違い!その仕掛けとして、124小節の提示部と501小節合わせて625小節、すなわち5の4乗という完全な作曲を、気付かなければ駄目! ということを語らずして、運命を演奏したことになるのですか?
すなわち、ニキシュ、山田耕筰、パウル・クレツキの記録レコードには、389小節目の全休止は無いのですけれどね! 事実の認識として、この音楽の記録の存在を共通認識しなければ、議論は深化しないということ! 間違いの間を抜いた演奏を経験しなければベートーヴェンの音楽を聴いたことにはならないだろう。
音楽は、感情を表現したものという説を、笑うことは簡単である。しかし、音楽は音響を通して時間を経験するのだという芸術論を理解することは、簡単なことではないだろう。 暑い夏に、森を見て涼しさを感じるけれど、森は涼しさの表現ではないという古典的な美学がすでに、語られている。
短調と長調の受けるイメージは、暗い、明るい、などという違いがある感想はその通り!でも音楽の説明としては、片手落ちなのではないか?すなわち、柔らかい、堅いという感想の説明もあり得るからだ。
小節数の話は、なかなか、話題にのぼらないのであるけれど、B氏の作曲について語る時、例えば英雄交響曲の第二楽章と、運命のそれとは同じ小節数なんですよね!とか話しても、楽譜を見ていないとしたら通用しないことだから仕方がない話。指揮者にとって、スルーする話であるとしたら、それは、いかがなものか? 運命の第一楽章の提示部、展開部の小節数と、第二楽章の小節数は一致して、247小節である。 第四楽章は、444小節で書き上げているよという指摘は、笑い話ではなく実際本当の話である。
ここまで盤友人が発信して、ブログウオッチャーの皆様は、いかなる感想を持たれるであろうか? ベートーヴェンの運命は、記録として楽譜に、仕掛けられているのであって、気付きの問題なのではあるまいか?というのが盤友人の見立てだ。
彼は56歳の1827年3月26日午後5時45分に臨終という数字まで伝えられている。 1808年に産み落とされた運命と田園、抽象的内面の音楽と片や鳥の声までする具象的音楽は、田園交響曲という作曲者自身の命名で、運命というのは、かくのごとく、運命は扉をたたくと弟子のシンドラーに伝えられたというエピソードによる。