千曲万来余話その192「シューベルト、楽興の時というピアノ曲をブレンデルの名演奏で聴く」
昔、セルジェ・チェリビダッケというルーマニア出身オーケストラ指揮者がいて、録音嫌いとして誤解されていた。彼は、生前、レコード音楽は認めないという発言を繰り返し、ヘルベルト・フォン・カラヤンのような音楽的人生を拒否していた。
なにも、それは極端な発言であったから、奇異に映っていたからだけれども、彼の音楽観は、音楽行為そのものしか音楽的コミュニケイションの手段ではあり得ないという観点に立つと、さような発言に通じるだけであって、さして奇異な存在ではない。音楽家の人生をまっとうした、オーケストラ指揮者の一人として、幸福な人生をたどっていたと言えるであろう。盤友人は、彼に楽屋で会ってサインを頂いた経験から、彼の人柄を直接感じ取っているのは、せめてもの、幸いである。
エグモント序曲、シューマンの第四交響曲、そしてムソルグスキー=ラヴェル編曲による展覧会の絵を聴いて、彼の指揮芸術を体験した。ただ、一度の経験ではあっても、一期一会の音楽経験だった。それは、まったく無駄のない、指揮であって彼の動作に隙が無く、ミュンヘン・フィルハーモニーのプレーヤーが必死に演奏する緊張感は、それは、空前絶後の経験として、現在がある。
レコード音楽とは、一体何か?
行為としてのみ、音楽を認めないとしたら、たとえば、シューベルトの音楽は、生の音楽のみでしか愉しめないものではありえないという議論が成立しなくなるだけである。
演奏者が居て、楽譜があって、楽器があるだけの世界ではなく、そこに、音楽記録の手段があったときには、レコード音楽が成立するのは、当然のことであり、チェリビダッケの発言は、その人一人の発言に過ぎないだけであり、肯定も否定もする必要がない音楽観の一つなのである。
アナログ録音、ディジタル録音を問わず、記録としての音楽は、一つの手段であって、目的ではない音楽である。録音をいかに、再生するかという努力を経過して、その意義は高められると言えよう。
常識の一つとして、アナログもディジタルも等しく同じ記録音楽であるという考えがある。それは、否定するまでもない常識である。盤友人は、アナログの世界に遊ぶと言うことは、その再生手段を高めるという、努力を経て、レコード音楽を経験しているまでである。両者の違いは、手のひらと甲をながめる違いである。
ぢっと手を見た石川啄木が眺めたものは、手のひらであろうという想像を楽しむのは、アナログの世界だ。
フィリップスのピアノ、アナログレコードの最高峰の一枚が、アルフレッド・ブレンデルの演奏するシューベルトの楽興の時という名演奏がある。その第二曲は、ピアノ独奏曲再生の幸福感を経験できる希有の瞬間である。
もし、レコードを否定したら、経験することを否定する議論であって、この経験が成立しないことになる。
レコードを愛する人には共有できる音楽、最高のモーメント・ミュージックにほかならない。
シューベルトは、天才であり、アルフレッド・ブレンデルはその伝道者であり、LPは福音体験の一手段であるから、盤友人はその恩恵にあずかる一人といえよう。