千曲万来余話その178「冬の旅、ホッターとフィッシャー=ディースカウで聴く」
オーディオに対する取り組みで、札幌音蔵のコビー宣伝標語は、音にではなく音楽のために、である。
盤友人の考え方、それは音楽を再生するのではなく、記録を再生するというものだ。
どういうことかというと、盤友人のオーディオライフは、死者のよみがえりに関心はなくて、その記録情報を再生することが目的になっているということだ。だから、音盤ディスクを再生するということでは、その手応えこそ価値を有するものであって、音楽を再生できるとそれで済むということではないから記録の再生に対しては、最大の注意を払う。
それは、モノーラル録音は音が悪く、最新ディジタル録音ほど音が良いという考え方とまるで正反対である。
以前、評論家吉田秀和の言葉として、再生装置は、ほどほどで良いということを紹介したことがある。
一方、作家五味康祐の言葉として、倍音の分からぬやつにオーディオは語れないということも紹介している。
盤友人の人生は、あきらかに、全収入の半分をオーディオライフに払っている。それは、なぜかというと、音楽の再生に、人生の糧を求めているからだ。五味康祐の言葉が、身にしみてよく分かる。
オーディオは音楽を再生できればそれで済む、のではあらずして、記録再生その手応えにこそ細心の注意を払う、ということは、その経験により、アナログ世界とディジタル世界を峻別するという感覚なのである。
トランジスターによる音には満足せず、真空管による味わいある奥深い世界に遊ぶ、ともいえよう。
繰り返しになるけれど、目的に音楽を求めることは同じであっても、その手段としては、アナログの世界を信じている。だからこそ、記録情報に対して、最善の再生を求めるのだ。
言葉の意味通り、音にではなく音楽のために、である。その手応えにこそ、価値があるといえよう。
ひるがえって、シューベルトの歌曲集冬の旅には名盤が多数有る。ハンス・ホッターは、1940年代から録音があり、ミヒャエル・ラウハウゼンとのものや、ジェラルド・ムーアとの1950年代の録音などは、モノーラル録音の最高峰である。シューベルトを愛する人は、断然、ホッターがいい!とおっしゃるだろう。
盤友人は、吉田秀和の紹介を通して、フィッシャー=ディースカウの音楽からシューベルト歌曲の世界に親しんで行った。人の声を完璧にコントロールする、その発声に対して、理想を聴いていた。
この二人両方を愛する方も、多分、いらっしゃると思う。彼らに、共通することは、レコードが多数残されているということだろう。片やワーグナー、オペラ歌手として万全の経歴を誇り、FD氏は、男声のための歌曲、全てを録音しているのではあるまいか?といえるほど、対照的であるにもかかわらずベートーヴェンの、第九の独唱録音は、一回こっきりである。
指揮者についていうとホッターは、オットー・クレンペラー、ディースカウは、フェレンツ・フリッチャイによるもので、奇しくも両者1957年の、前者10月と、後者12月録音になっている。
それは、1月に巨匠トスカニーニ、9月には天才デニス・ブレインの訃報が伝えられた年でもあった。
更にその年の9月20日には、92歳の作曲家ヤン・シベリウスがイェルベンペーにて死去している。