千曲万来余話その175「野田暉行、1971年発表作品合唱組曲死者の書」
十数年以前、札幌教育文化会館大ホールにて、東京混声合唱団演奏会、田中信昭指揮する合唱音楽を鑑賞する機会を得ている。モンテヴェルディの曲に始まり、三善晃作品までの古今東西という幅広い合唱曲演奏会であった。その意匠は、多様な配置による合唱形態によったものだった。
とりわけ異色の合唱音楽は、野田暉行作曲、死者の書であった。男声前列、女声後列の配置による古代日本社会の死者慰霊の音楽で迫真の演奏の上、一際、鮮烈な印象を覚えた。昭和46年民音現代作曲音楽祭委嘱作品。
同年2月、文芸誌新潮に、劇作家山崎正和は、劇的なる日本人という日本文学におけるドラマの系譜に関する慧眼の評論を上梓していた。世阿弥から岸田国士にいたる劇作家紹介小論の体裁を取った、高校生にとっても理解可能な文学論で、平知盛の、見るべきほどのことは見つという運命にいどむ平家物語の世界、そして、昨今世情騒然とさせた個人的な美的ファナティズムの呼び声に見える悲劇を、考えさせるに充分な提言であった。
当時、高校三年生だった盤友人は、昭和45年11月25日水曜日、午後2時半頃いつものごとく歩いて帰宅し、いきなり母親から告げられた言葉は、ミシマガハラキッタ、カイシャクサレタ!かいしゃくッテナニ?だった。にわかに、理解できなかったけれど世に言われた三島事件、朝日新聞夕刊は、市ヶ谷での出来事を第一面の写真掲載で報道していた。
三島由紀夫には、二人の人間がいる思う、作家三島と倚人三島と。作家三島の内部に事件と関連づけられる要素は何もない、という劇作家山崎の簡潔にして的確なコメントを同時に目にしていた。
その日の午前、新潮社に、豊穣の海第四部天人五衰の原稿を届けた足で、三島はクーデター決起をうながした果て、自栽しノーベル文学賞受賞候補といわれた小説家の、凄絶な最期。小節とは何か、というシリーズを掲載していて、それはミナミゾウアザラシのようなものと、比喩していたのが最後のメッセージだった。
日本には真に劇的なものが欠けているという近代文学における強迫観念、山崎正和は、そこに、反論を試みたのだ。
野田暉行の合唱作品死者の書は、札幌で、演奏された。バッハにはミサ曲ロ短調という合唱作品がある。その開始された時のffフォテッシモ、憐れみ給え、魂の触れ合いを求めるヨハン・セヴァスティアンの音楽に、慰謝される経験は、せめてもの救いである。魂の平安を祈る今年、奇しくも、11月25日は水曜日・・・・・