千曲万来余話その150「間違いではないか?という間と、作曲する人生に懸けた命というB氏の話」
交響曲で使用される楽器は、第一第二ヴァイオリン、ヴィオラ=アルト、ヴァイオリンチェロ、コントラバスの、弦楽五部といわれるものと、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット=バスーンという木管楽器、それにトランペット、ホルンという金管楽器。さらにティンパニーという打楽器だが、それは決まっている話ではない。
それら管弦打楽器の演奏家達を束ねるのが、指揮者であり、オーケストラの楽譜、演奏者が見るパート譜のほかに、指揮者が見るのは、総譜といって、ここでは、あわせて12段で構成されている。
ベートーヴェンは、交響曲第五番ハ短調で、最初、弦楽五部と、フルート、クラリネットに開始の和音を演奏させていた。つまり、休止している段の数は5段であった。オーケストレイションに手を加え、フルートの演奏を取り除き、休止楽器の段数、開始演奏楽器の段数、それぞれ6段ずつというバランスを取っている。だから開始は弦楽五部とクラリネットという具合に編成は最終決定された。
冒頭の楽譜、休止符であるという事実は、象徴的である。ウタタタ、ター、ウタタタ、ターという音楽は、4小節
で表記される。第五交響曲は、それを、二回目に延ばす音に同じ音をタイで一小節加えて、5小節になっている。
大多数の指揮者による解釈は、前者フェルマータより後者は一小節分長くという具合だが、それは納得できるものであろうか?指揮者ブルーノ・ワルターは、後者の延音記号フェルマータで、前者よりかは短い扱いをしている。
フェルマータという延音は、拍節をとめて自由に延ばすということだから、もっともなことである。
一小節分長いという解釈は、成立しないものであるということだ。ここでは、5小節という、一単位感覚が必要であるということにすぎない。
先日、BS放送、指揮者近衛秀麿のドキュメンタリー番組で、彼は第一楽章終止25小節前の部分、同じ音の連続に対して休止符変更を加え、ウタタタター、ウタタタターという部分を際だたせようとしたという指摘があった。
理解できる話ではある。作曲者の音楽に小節数を変更せず休止符を増やすということであったのだが・・・
これは、作曲者と指揮者の関係で、象徴的である。作品に手を入れる指揮者という図式が成り立つ。
果たして、指揮者が作曲者に対して超えた存在という図式なので、作曲に対するリスペクト、尊敬の念がある人の行為ではない。あってはならない話であるということだ。
第四楽章に、ピッコロ、コントラファゴット、アルト、テノール、バストロンボーンが加えられて、音域の拡張が図られている。その数は五楽器ということで、第五番のお仕舞いは、全楽器の演奏で締めくくられている。わずか一つの音、ド、ハ、Cの音のみだ。徹底している。
そういえば、第一楽章501小節と冒頭124小節提示部の繰り返し実行演奏は、625小節すなわち、5の四乗という作曲であった。現行389小節目の休止符は、作曲者の意図ではない!間違いか?という話である。
それら管弦打楽器の演奏家達を束ねるのが、指揮者であり、オーケストラの楽譜、演奏者が見るパート譜のほかに、指揮者が見るのは、総譜といって、ここでは、あわせて12段で構成されている。
ベートーヴェンは、交響曲第五番ハ短調で、最初、弦楽五部と、フルート、クラリネットに開始の和音を演奏させていた。つまり、休止している段の数は5段であった。オーケストレイションに手を加え、フルートの演奏を取り除き、休止楽器の段数、開始演奏楽器の段数、それぞれ6段ずつというバランスを取っている。だから開始は弦楽五部とクラリネットという具合に編成は最終決定された。
冒頭の楽譜、休止符であるという事実は、象徴的である。ウタタタ、ター、ウタタタ、ターという音楽は、4小節
で表記される。第五交響曲は、それを、二回目に延ばす音に同じ音をタイで一小節加えて、5小節になっている。
大多数の指揮者による解釈は、前者フェルマータより後者は一小節分長くという具合だが、それは納得できるものであろうか?指揮者ブルーノ・ワルターは、後者の延音記号フェルマータで、前者よりかは短い扱いをしている。
フェルマータという延音は、拍節をとめて自由に延ばすということだから、もっともなことである。
一小節分長いという解釈は、成立しないものであるということだ。ここでは、5小節という、一単位感覚が必要であるということにすぎない。
先日、BS放送、指揮者近衛秀麿のドキュメンタリー番組で、彼は第一楽章終止25小節前の部分、同じ音の連続に対して休止符変更を加え、ウタタタター、ウタタタターという部分を際だたせようとしたという指摘があった。
理解できる話ではある。作曲者の音楽に小節数を変更せず休止符を増やすということであったのだが・・・
これは、作曲者と指揮者の関係で、象徴的である。作品に手を入れる指揮者という図式が成り立つ。
果たして、指揮者が作曲者に対して超えた存在という図式なので、作曲に対するリスペクト、尊敬の念がある人の行為ではない。あってはならない話であるということだ。
第四楽章に、ピッコロ、コントラファゴット、アルト、テノール、バストロンボーンが加えられて、音域の拡張が図られている。その数は五楽器ということで、第五番のお仕舞いは、全楽器の演奏で締めくくられている。わずか一つの音、ド、ハ、Cの音のみだ。徹底している。
そういえば、第一楽章501小節と冒頭124小節提示部の繰り返し実行演奏は、625小節すなわち、5の四乗という作曲であった。現行389小節目の休止符は、作曲者の意図ではない!間違いか?という話である。